mtDNAは約16±4万年前まで、Y染色体は6万年前まで辿れる永代性、継代性が特徴である。組換えによって数世代で継代性が破られる常染色体およびX染色体とは、根本的に異なる扱いが必要なはずである。しかもmtDNAは髪の毛や爪などから抽出しやすいという特徴がある。ヒストンがなくて変異するのが核DNAより速いのに、なぜ抽出しやすいのかという部分は理解できていないが、ともかく、以下のように述べられている。
(『アプリケーション / 法医学ゲノミクス / 行方不明者 & 身元不明遺体』 Illumina, Inc., 2014年12月11日閲覧 より)
mtDNA シーケンスは、髪の毛や歯、骨断片、埋められた遺体など、特に難しいサンプルの場合に解析できます。細胞内には数百から数千もの mtDNA 分子が存在しているため、通常2コピーしかない常染色体のマーカーと比べて、mtDNA タイピングは結果を得る可能性が高い手法となっています。
未来の血縁者が被る不利益は、希少疾患の診断に困難が出るというリスクと、プライバシーの侵害の二つに分けられる。基本的には民事として閉じた話のはずで、法制度はあまり関係がない。
[もっとも希少な希少疾患...]の節で述べた、70億人に一人といった疾患を診断するのは、匿名公開した形で、BAMやVCFを様々な分野の研究者に見てもらわないと、実際問題として診断不可能である。[検証実験の山...]でふれたように、システムとして、匿名公開したものをなるべく多くの研究者に見てもらって検証してもらう仕組みを作っていく必要がある。重症度が高いほど、診断にかけられる時間は少なく、たとえそんな中でも稀だから診断できずに天に召されても仕方がないなどと諦めずに、血縁者から第二の犠牲者を出さないためにも診断を行うべきである。患児においてmtDNAまたはY染色体の病因性や合併症の可能性が完全には否定できず、しかし過去に一人でも血縁者の誰かがmtDNAまたはY染色体を実名で公開していると、患児のmtDNAやY染色体を含めて匿名公開することが、患児のプライバシーの点から倫理審査で許可されず、常染色体とX染色体に限って匿名公開することになる可能性が高い。そうやって匿名公開しても、診断できずに亡くなった場合、やはりmtDNAとY染色体まで匿名公開した方が良かったのではないかという話になり、血縁者の一人がmtDNAとY染色体を実名公開していたために甚大な被害が発生してしまった可能性が生じる。あるいは、生死に関わるほど重症なので匿名公開しようとしていたのに生きてこそのプライバシーが何の関係があったのかと、倫理審査の基準の不当性が問題となる。患児の死亡という被害に見えるので、後で裁判になりやすい。[感染症と希少疾患...]の節で調べたように、医療訴訟で無過失賠償制度といった考え方をしない日本では、一般に過誤の大きさや科学的因果関係ではなく、起こった結果の大きさのみで判決が下る傾向が強いため、患児の死亡は誰か支払い能力のありそうな者に賠償させなければという話になりやすい。この場合は不利益の分類としては、希少疾患の診断が困難になるというリスクである。
用語として混乱が始まっているので、関連用語について、ヒットカウント分析を行っておく。
"実名公開" 約 79,400 件
"匿名公開" 約 19,900 件
(参考) "匿名化公開" 2 件(中国語)
"実名化公開" 一致はありません
"mitochondrial DNA" 約 5,450,000 件
"mtDNA" 約 923,000 件
"ミトコンドリアDNA" 約 145,000 件
"mt DNA" 約 143,000 件
"mDNA" mitochondria 約 19,200 件(マドンナを排除するために条件を増した)
(参考) "mito DNA" 約 6,800 件(アルファロメオ含む)
(参考) "ミトDNA" 約 120 件(アルファロメオ含む)
"ミトコンドリアルDNA" 約 41 件
"Y染色体" 約 577,000 件
"Y-DNA" 約 510,000 件
"YDNA" 約 389,000 件
"男性染色体" 約 70,300 件
"Y染色体DNA" 約 24,700 件
"Y性染色体" 約 17,400 件
(参考) "男染色体" 約 3,270 件(中国語大多数)
"Yクロモソーム" 約 82 件
"Yクロモサム" 2 件
(グーグルで検索 2014年12月10日)
プライバシーの侵害のパターンを考えてみる。複数の血縁者がmtDNAまたはY染色体を匿名公開した場合、その中のたった一人が実名を公開したことによって、ごっそりと連鎖的にどの匿名が何という実名に対応するか、分かってしまう場合がありうる。あるいは、髪の毛のmtDNAなどから第三者が血縁者の一人の実名を推測して、いわゆる晒し行為を行った場合も、同様の不利益が発生する。しかし、比較の問題であるとも言え、mtDNAやY染色体でなくとも、SNSでグループなどの所属やチャット内容から実名の一人から辿って匿名の人物の実名を推測できる状況は頻発している。そういったプライバシーの侵害について、確かにSNSで問題になってリアル割れさせられたなどと裁判にもなっているだろうが、mtDNAやY染色体の場合は更にその子孫に及んで実名が割れてしまう状況を作ったことになるため、問題はより一層深刻で、潜在的な被害としては非常に大きい。ただし、これはあくまでプライバシーの侵害であり、リスクへと転じるのは、子孫で特に頻度の小さな希少疾患が生じた場合のみである。
更に、私の場合であるが、血縁者の中に、病因性を含むゲノム情報を匿名公開している者がいた場合、その病因性が実名または匿名で医療を目的とせずにmtDNAやY染色体を公開している他の血縁者にも疑われてしまうという、やっかいな状況となる。実名の場合はさらにその子も疑われるかもしれない。この場合は、匿名公開している者は、あくまで病因性の追求の方が、血縁者のプライバシーよりも、憲法で定める基本的人権の中の生存権に基いて優先であるということの医学的根拠を示す必要がある。
更に先の技術として、姿形、顔つきといった形質を、写真から取り込んで、ちょうどグーグルの画像検索で類似画像を探すようにして、常染色体やX染色体のみの匿名化BAM、VCFの実名を推測することができるようになるかもしれないが、コストと必要な技術水準から考えて、mtDNAとY染色体ほど問題になるとは考えにくい。検討内容の複雑さとして、mtDNAとY染色体への対応を決めないことには、常染色体やX染色体についても決まらない。
現時点での結論として、基本的には、未来の血縁者に被害を出さないように、実名でmtDNAとY染色体を連結して公開すべきでないということになる。mtDNAとY染色体だけを、常染色体とX染色体のエントリーとは関係ないと見えるよう別のエントリーとして公開するのは問題がないはずである。匿名であっても、公開する範囲はなるべく限定した方がよいはずである。連結していいのは、医療目的の場合のみに限った方がいいはずだが、2型糖尿病といったmtDNAに強く関連するGWASに使えないデータが増えてしまう可能性がある。そういったmtDNAとY染色体がらみのGWASについてのみ、利用者を限定して全て連結して匿名公開すべきではないだろうか。
しかし、現状、23andMe、Family Tree DNA、OpenSNP†、Geni.comなど、米国およびイスラエルでは、mtDNAやY染色体を、祖先についての情報を得るために、積極的に公開しているようにも見える。この2国では人口の流入が激しかったため、祖先を調べることに特に価値があるためと思われるが、23andMeの販売対象国が限られているという例外を除いて、いずれも国境を超えてオープンなのでヨーロッパからこれら2国のサービスを利用している者も多いはずである。やはり、地球規模でmtDNAやY染色体を実名を出して比較するということが起こっていて、そういう状況の中で日本だけが独自にクローズドな基準を作ってしまうと、後で必ず問題になると思われる。やはり、一時的にmtDNAとY染色体の分離登録でやり過ごすとしても、最終的にはプライバシーより生存権が重要というコンセンサスと、米国のGINAに相当する日本の法的整備が必要であろう。
4つに場合分けを行ってみる。
方式\匿名性 | 匿名 | 実名 |
連結 | △ | ☓ |
分離 | ◯ | △ |
「方式」と記したのは、mtDNAとY染色体のデータを、常染色体とX染色体のデータに連結させるか、分離させるかである。
連結実名で☓となっているのは、基本的にどのような場合でも、公開するのが推奨されない。
連結匿名で△となっているのは、診断を必要としていることの医学的根拠を示すという条件で、mtDNA、Y染色体を病因として含むかもしれない症状なので、やむをえず匿名公開するパターンである。これでmtDNAとY染色体から実名が割れないとは言えないが、非常に大雑把に言って10~20年、間をとって15年ぐらいは、mtDNAとY染色体でインデックスされた個人情報が売買される社会になるのに時間がかかると思われる。ただし髪の毛といった試料を、偶発的に誰かが分析してしまう可能性はあるので、注意する必要がある。
分離実名で△となっているのは、実名で公開する必要がある場合は、犯罪に巻き込まれて身の潔白を証明しなければならないといった特殊な状況しか思いつかないが、分離していれば希少疾患を患う血縁者の診断に配慮していることの証明にはなる。これも、非常に大雑把に言って5~15年、間をとって10年ぐらいは、髪の毛から気軽にmtDNAを得て血縁者を推測できる技術水準までかかるだろう。
分離匿名で◯となっているのは、完璧ではないが、現在の技術水準の中では、未来の血縁者の不利益に十分な配慮がされたと言える方法である。常染色体から実名を特定するのに、非常に大雑把に言って15~25年、間をとって20年ぐらいは、常染色体の形質でインデックスされた個人情報が売買される社会になるのに時間がかかるかもしれない。一番予測しにくいため、詳しいことは現時点ではよく分からない。
分離の場合の技術的困難として、FASTQではmtDNAとY染色体を分離するのが、事実上不可能と思われるため、BAMやVCFについてのみ公開することになるが、やはり私の場合、BAMとVCFの妥当性に自信がないことである。DNA検査会社が独自に作っているパイプラインを使って作られたBAMを、自分で作ったものよりましだと考えて、そのまま使わざるを得ないので、どのぐらい妥当なものか、まだ検証できていない。ともかく、ある程度BAMとVCFの妥当性を評価できる準備がないと、FASTQを含めずに公開することの意味はないものと思われる。
もっと法制度寄りの話として、日本ではガイドラインの形で、教育用の倫理審査の基準がないということについて、教えていただいたので、検証した。
(『「ゲノムDNAの抽出と遺伝子情報の解析~ALDH2遺伝子の多型」が 行われました(その1)』 2005 Life Bio Plaza 21, 2014年12月11日閲覧 より)
ヒトゲノムDNAを教育目的で用いた実験や授業を行うときに生命倫理的な配慮が必要であることはわかりますが、実際に学校や教師がどのような手続きをとり、どのような方法で行えばいいのかについては、試行錯誤で取り掛かるしかないのが実態です。従って、このような実験実施の手引きになるようなガイドラインについては、必要性の議論も行われていません。
確かにそういった基準がないような記述となっている。しかし、明言した文献が見つからないため、ないから連結公開していいのか、ないから連結公開すべきでないのか、全体的によく分からない。
現時点の社会的に利用可能な技術水準として、米国では2009年の段階で、すでに髪の毛からDNAを分析するための、父親判定を目的とした民間サービスが存在した†。子として男子・女子を区別していない記述のためY染色体ではなく単鎖DNA型(STR型)と思われる。父親が本当に誰なのか自信がない女性が、秘密裏に夫や彼氏の試料を得て、子の髪の毛、または妊娠中の羊水との親子鑑定を行うための検査と思われる†。余談になるが、最近、親子鑑定で話題になった大沢樹生が述べていたのは非常に適切でなくて、こういった検査にはまだCLIA†といった基準がないはずである。はっきり言うと、DNA検査会社の経営状態によって、クレームが来ない範囲で資本主義的に検査の確認手順を省略可能である。検体の取り違え防止措置としては人間が確認するだけで特にコストに反映されるような厳重な防止措置は行われていないと思われるため、たった1回の3万円程度の検査で結果が間違いないと言えるのは、親子が一致した場合のみである。一致しない場合は、子の人生に関わる重大な結果なので、取り違えの可能性を疑って、別のDNA検査会社でもう一度分析する必要がある。
まだうまく整理できていないが、[ディストピアな未来像...]で述べた国家間の生まれの平等性、生まれのフィルタリング・グレードに関する齟齬は、まず、武力衝突という極端な形ではなく、国家観のゲノム倫理基準の違いによってスタートする可能性の方が高い。米国とイスラエルでmtDNAとY染色体を比較している人々と、日本の一般人口の間では、相当にmtDNAとY染色体を公開することに対する抵抗感が異なっている。日本人の世襲的な考え方では、基本的に医学的根拠なしに、実名連結公開などして子孫に不利益をもたらしてはならないと考えるのが普通だと思われるが、米国とイスラエルでは当たり前のように公開している。たしかに、自分のルーツを知る権利も人権と言えなくもないが、家系など分かりきっているほとんどの日本人には理解できない価値観をしているはずだ。つまり、米国やイスラエルで、実名連結公開している場合、特にアラブ諸国などで実名配列公開を理由にして入国制限を受ける可能性が高いと思われる。米国やイスラエルで実名公開している人々のやっていることは、日本人以上に、アラブ人にも理解不可能なはずである。さらに敵性国家である。彼らから見れば、NIPTといった生まれのフィルタリングをかけるという発想自体、非自然の状態であり、いずれ自然の冒涜に近いと考えるのではないだろうか。NIPT実施、ゲノム実名連結公開、そういった国家観のゲノム政策の違いによって、戦争などという極端な形ではなく、何らかの倫理的衝突がまず起こってくるものと思われる。それが20年後なのか、50年後なのかは、現時点では予測できない。