2019年10月30日水曜日

人権に基づく多様性、人権に基づく変化性

pubooからの転載です。

 本節では、多様性という用語に関して、まさに文字通りの意味で様々な用いられ方をしているために、[遺伝学用語の混乱:variation、多様性か変化性か]の節で述べるような、やっかいな状況となっているのを受けて、生物多様性とヒトの多様性を明確に区別するために、人権に基づく多様性という考え方を提案する。

 遺伝学が、英語本来の意味では起源学であったのに、日本でいつの間にか遺伝学となりheredityといっしょになってしまって、ニュアンスが違うことになった結果、遺伝学という用語のイメージを良くするために、強引に「遺伝学:遺伝と多様性の科学」としてしまったのは、調べれば調べるほど違和感がある。やはり、遺伝学の遺伝の印象が気に入らないなら語源にしたがって起源学とすべきであった。

 [フィルターされた人々による...]の節でも述べるように、多様性というのは、取り扱いが極めてデリケートであるべき用語である。生物の進化史の中では多様性はロマンを感じることができる言葉だが、ヒトにおいては、生死をかける形の、多様性の最も明確な表れが遺伝性疾患なのだということに、あまりにも配慮がなされていない。よい方向に受け取れば、生き方は多様でよい、疾患を患っていても自分なりにがんばればよいと言われているようで、生きることを許されている気がすると同時に、悪い方向で受け取れば、生き方は多様なのだから患者に対する社会的支援もなくてよい、患者は患者なりに最低限の人生を送ればよい、と無責任に言われている気もする。ヒトでも他の動物と同じだけ生物多様性を許容していいのだという考え方が広まると、遺伝性疾患は多様性や個性の一部だからという自己責任論が持ち上がり、遺伝性疾患と進化の恩恵の享受という本著の主要テーマの因果関係の議論がなされず、結果的に遺伝病やダウン症候群の患者、身体障害者、精神障害者への社会保障の軽減理由として利用されてしまう恐れがある。

 もちろん、学会は良心に基いて多様性と述べているのは分かっているのだが、時期が悪すぎる。いろんな疾患がGWASにより遺伝性を持っていることが次々に数値として明らかになっている現在では、多様性というただ一言がいろんな疾患の患者の生活に影響を及ぼしうるのだ。社会が原因ではなく、家系が原因であると証明されればされるほど、自己責任論は今後一部の疾患で強まっていくと予想される。実際に障害者自立支援法*は成立してしまった。本著では私が既に身障手帳を返却したので、障害者自立支援法の中身は全く触れないが、やはり、患者の自己負担を増す方向での法改定が今後も起こってくるはずで、そういう状況の中で多様性は結果的に格差を許容してしまうキーワードである。「日本人類遺伝学会」と、「人類」さえついていなければ、もちろん、こんなことは問題になるはずもないのだが、ヒトに対して用いるからには、多様性ということの定義を明確にすべきと思われる。

 定義を示さずに多様性と言及されると、三つ葉の野生型クローバーの間に、変異体である四つ葉のクローバーを発見して大喜びするような、子供じみた質(たち)の悪さを感じる。三つ葉のクローバーが多数派で、四つ葉が少数派なのは、何らかの理由で三つ葉のクローバーの方が生存にとって有利だからである。四つ葉のクローバーは幸福を呼ぶとされるが、四つ葉として生まれてしまったことがクローバー自身にとって幸福とは限らない。すぐに思いつくのは、四つ葉のクローバーで葉と葉の根本の部分が三つ葉よりも谷間の表面積として大きくなり、そこに病原微生物といったヒトの感染症に近い疾患として病原体が溜まって、免疫でカバーできずに絶滅するパターンである。これはヒトでも似た状況で、感染症に対抗できる新しい形質を獲得するために、膨大な数の遺伝性疾患の患者をいきあたりばったりな変異により生み出し続けている。我々は科学によって感染症に強い形質にはどんな変異が必要か、逆にインフルエンザ脳症となるCPT2といった変異をどうやって見分ければいいのか、年々明らかにしつつある。それほど科学の発展に成功した現代社会で、進化というあまりにも原始的で過酷なプロセスを用いて、人類全体を存続させるために、新生児の生存権や個人の人権を踏みにじり続けなければならないのだろうか。科学によって20年前なら信じられない数のセンテナリアン*を世界最大の人口比で生み出し続けるこの国で、なぜ科学によって遺伝性疾患の患児を生み出さないように欧米と同じだけの努力がなされないのか、そこに多様性だ、家系の問題だと、社会の研究投資や努力の問題にしない論調が学会レベルで形成されているせいではないのか。私はそう思っている。

 具体的に発生している問題を[新型出生前診断...]、[着床前診断...]の節で述べているが、概要としては、21万円を支払えず大きな病院へ何度も通院できないような貧しい夫婦ほど新型出生前診断が受けられず染色体異常症を患い、それに高齢妊娠・高齢男性授精という夫婦独自の事情が入っていると、生物学的多様性を理由にして、適切な助成を与えられなくなる可能性が生じる。これは今後技術が進んで新型出生前診断が高度になるほど深刻な問題になり、しかも本著では海外へDNA検査を発注するやり方が一つのテーマであるため、血液の場合については詳しくは述べていないが、それでも、いずれ高齢化により日本の医療はパンク状態となり、海外へより頻繁に検査の発注が行われることは間違いないと思われる。その中でも日本国内の検査の範囲だけでも生まれの平等性を貫こうとすれば、かなり早い段階からヒトに対する多様性をどの程度許容するのか、つまり、具体的にはどの疾患からどの疾患まで妊娠中絶といったことをしていいか、そういった生まれの検査のために貧富の差を含んでしまっていいのか、そういう民意への問いかけが本来は新型出生前診断の導入前に必要であった。それが問いかけられずに物事が進んでいるのは、遺伝性疾患を家族が患ったこともない人々が中心になって物事を決めているからとしか思えず、そうではないと反論するならば、無条件に多様性を肯定しないでいただきたいのだ。

 そこで提案として、ヒトに関する文脈だけは「人権に基づく多様性」とするのはどうだろうか。基本的人権、特に生存権を蹂躙するほどの生物多様性など、誰も望んで病気になるわけがないのであって、ヒトに対する多様性は人権の幅の中に制限されるべきものと考えるのが、適切とは考えられないだろうか。人権の方が多様性より優先することを、ヒトに対して多様性と言及する前に念押しすべきである。そうでないと助成や支援を減額する口実、新型出生前診断の高度化に伴う検査費用の高額化、ひいては貧富の違いによる生まれの差別化の口実を与えてしまう。口実とは言っても、誰かが悪意をもってそういう方向に向かわせるわけではない。基本が資本主義国の日本では、遺伝性疾患の予防目的でない男女産み分けのために、海外で着床前診断を受ける人口が存在するように、漠然と、しかし結果的に平等性が軽視される要素が至るところに存在し、かと言って希少疾患を診断せずに5000疾患を超えるところを705疾患までしかカウントしないような日本の医療に、夫婦が海外で医療を受けるのを制限する正当性は既にない。妊娠しにくい原因について、日本国内では診れない劣性遺伝の希少疾患の可能性があると主張すれば、多くは男子の方が重症化するのが進化的に当たり前なのだから、海外での着床前診断と女子への産み分けについて倫理的にも批判が難しい状況なのである。

 "1.genetics"について、『遺伝学「意味:遺伝の科学」』から、『遺伝学「意味:遺伝と多様性の科学」』へと改定したのは、やはり、多様性を具体的に限定する注釈が必要である。人権に抵触するような多様性を説明なく肯定すべきでない。繰り返しになるが動物を対象にして研究しているのなら何も問題はない。しかし、人類を対象に研究する人類遺伝学会なのだから、この遺伝学は主に人類遺伝学のことである。そして人類遺伝学というのは、学会のテーマとして相当頻繁にその意味を説明する必要があるから、わざわざ「意味:」と記したはずである。いったん説明すると決めたら、その説明を都合良く中途半端で終わらせるべきではない。その中途半端は遺伝性疾患の患者にとって都合が悪い。研究対象の検体に対して基本的人権という社会の誰もが守ることになっているルールに基づいた配慮があるべきではないだろうか。

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