2019年10月30日水曜日

我が子に故意に良くない遺伝因子を許容する親の罪

pubooからの転載です。

 今はまだ多くの人には受け入れられないかもしれないが、極端な話、iPS細胞による人工子宮によって妊婦の肉体的なリスクや負担が軽減された場合には、おそらく、このように考えることができると思う。ヒトというのは、半分が遺伝因子で、半分が環境因子から構成されている。だから出生すればアキラと名付けられる胎児に遺伝性疾患が存在すると知らされて、そして産むという決定を下した場合には、アキラ君という人格に対して、不利な遺伝因子を与えていることになる。アキラ君はそう名付けられ、両親に愛され、地域社会の影響を受けて育つという環境因子による枠組みであり、その中で人格が育っていく。疾患をもった人が性善であると考えた方が居心地がいいが、実際は患者は善と悪の間で揺れ動いていく。不利な遺伝因子はやはり人格的にも不利な方向に働くことの方が多いのである。



 一度だけ中絶すれば、後は人工子宮により安全に生まれることができると仮定して、健康体に生まれることもできるアキラ君に、知能に影響を与えるほど重度でないとしても、肉体的に他の子より不利となる遺伝因子を与えるということに、両親の罪はないのだろうか?



 米国では疾患のある精子を販売したとして発症した子が精子バンクを訴える訴訟が起こり、どうやら勝訴†している。法律用語に慣れてないので推測調になり申し訳ない。オープンアクセスでないのが残念だが、2009年に勝訴が伝えられたこの訴訟の場合は、学術論文として因果関係が証明されているようだ†。精子にもPL法が適用†されたとしている記事もあるが、詳細はよく分からない。いろいろと詳細が解説されているのは、ニューヨーク・タイムズのサイトに掲載されている2012年の記事で、精子ドナーによる遺伝病患児が報告された数百例にとどまらず数千例は存在するはずとして、対策の必要性†が訴えられている。報告された数百例というのが、どのぐらいの重症度のものまで含むのかは、記事中では述べられておらず、リンクを辿る必要があるようだ。



 日本語の文献としては、粥川準二による「バイオ化する社会」の第一章で述べられている。



 自主的な対策として、レジストリと呼ばれる登録制により兄弟姉妹となるレシピエント同士で遺伝病の発症情報の共有を図るそうだ。また、ドナーの親族で遺伝病を発症した場合の報告義務、および、精子提供する前のDNA検査の範囲の拡大を、精子バンクと連邦政府に呼びかけるということのようだ。ネブライザーを付けた嚢胞性線維症の患児の写真が痛々しいが、この子の両親が精子バンクに対する訴訟を起こしたとのこと。20年より古くにRocky Mountain Cryobankが問題の精子を入手して、数年前閉鎖されたところを、その精子を嚢胞性線維症について検査済みと文書により保証された状態で、被告のNew England Cryogenic Centerが購入し、両親へと販売したという流れと説明されている。記事の真ん中ぐらいで記されている、カリフォルニア精子バンクの遺伝カウンセラーが神経線維腫症1型(NF1)の病的変異を精子バンクの中に発見したと学術報告†したことと、写真の患児の訴訟の件は、読み取れた範囲では関係はしていないようだ。2013年に入ると、40人の患者が劣化した精子を提供したとして病院に対する集団訴訟†が起こっている。年々コトが大きくなっているようだが、同ウェブページ中でPDFとしてダウンロードできる訴状を眺めても法律用語に阻まれてよく分からない。別の節で述べた医療訴訟の一般的な特徴のように、患者の重症度のみに比例して、陪審員にとって技術的な意味で理解が困難な、医療機関の過誤の程度を含んでいなさそうな雰囲気を漂わせている。こういった訴訟に刺激されて連邦政府が対策を打てばそれが一つの成果だと思うが、もしもそうならなければ患者にも病院にも不幸で、弁護士だけが儲かる仕組みが出来上がるのだろう。



 環境因子半分と遺伝因子半分の人格に、故意に良くない遺伝因子を許容する両親の罪へと話を戻したい。米国のように精子バンクを訴える社会にまだ日本はなっていないと思うし、なった方がいいとも思わないが、そこまでいかずとも両親のその時の気持ちやロマンによって、子という別個体の遺伝因子を意思決定するということに、後々何十年のうちに両親が罪の意識を感じることはないのだろうか? 両親が亡くなった後も子は生きていかねばならないのである。両親が生きている間だけ面倒をみることはできても、その後は? もしも自分達が交通事故で早くに死んでしまったら、誰がその子を助けてくれるのか? 難病法が施行されても予算が足りない足りないから助成の対象疾患をどこまで狭くしようか、なんて議論している日本社会なのに。もしも日本社会がその子の面倒を十分に見てくれるほど暖かければ、難病法なんて21世紀に至らないずっと昔に対象疾患を広げて施行されていたはずだ。これが物心ついてから四十年間、ずっと易疲労性と筋肉痛を感じてきた当事者、そして診断さえ受けられないため難病法の指定などされるはずもない当事者として、どうしても思ってしまうことなのである。



 日本のNIPTの導入の議論で白日の下に晒されたのは、まだ見ぬ我が子という別人格の遺伝因子を、危険に晒すか否か、両親がどちらにでも決定してもいいんだという、傲慢な考え方なのではないだろうか。我が子の健康を求めるのは、両親の権利だが、同時に義務でもあると思う。極端なことを言えば、NIPTが受けられる地域に住んでいて、検査費用の21万円が十分に支払えるのもかかわらず、NIPTを受けることをためらって、自分の子供が遺伝性疾患を患っても構わないと考える人間は、人の親になどなるべきではない。子を虐待して傷つけたり、そうでなくてもネグレクトする可能性が高いのは、そういった層だと思う。周囲や社会と闘ってでも子の病因性を排除しようとするのが、動物の親としての本能に基づく自然な行動だと、私は思う。



 さらに言うと、NIPTが受けられるにもかかわらず受けない方々の多くが、実は、医療目的でない男女産み分けなどというばかな親の都合で、あかちゃんの素である胚を海外に運んでまで着床前診断(PGD)を受けて潜在的なリスクを負わせる人たちと、同じ層なのではないかとさえ思える。[着床前診断の潜在的なリスク...]の節で詳しくふれるが、PGDとNIPTは目的は同じでも、健康なあかちゃんに対する侵襲が存在するのと全くないのとで対称的だ。「間引き」であるにもかかわらず、なし崩し的に国民の十分な議論なくNIPTが導入された点だけは批判すべきだが、健康なあかちゃんに侵襲がないこと自体は、非常によいことだ。



 PGDでは8分割ぐらいしかしていない胚から、8分の1を切除するので、言ってみれば、胚の大きさをヒトの体で考えたなら、手足をもぎ取られるぐらいの侵襲を受けることになる。この結果、他の7細胞に大きな傷を付けてしまうと、その胚はあっさり死んでしまう。だから傷がついた胚は排除されて患児として生まれないと言われているが、男性不妊や父性年齢効果で精子だった時の影響が自閉症や統合失調症まで及ぶことが統計として出てくると、やはり精子を含んで生じる胚にほんの僅かであれ傷がついたら、子が成人してからその後遺症に悩まされることは起こりうるのだ。親が遺伝性疾患を患っている場合には、PGDの潜在的なリスクよりも明らかな遺伝性疾患の方が重症だから海外ではPGDの対象となっている。既にマウスでPGDの動物実験を行ってアルツハイマー病の罹患率の上昇が指摘されているように、仮にヒトでもアルツハイマー病の罹患率を押し上げる形でリスクが表れるとしても、これはPGDで生まれてアルツハイマー病を発症する年齢まで生きた人口が生じるまであと半世紀ぐらいかかってしまう。もちろん、子がアルツハイマー病になるような年齢に至ると、両親は既に他界していることが多いだろうが、言ってみれば、ずっと先の子の健康など知ったことではない、女の子の方が育てやすいし一人産めば我々は祖父や祖母に「子供まだできないの?」と責められずに楽ができる、そういう発想で、男女産み分けだけのためのPGDは、海外で生殖補助医療を受けるための大金を積むことができる限られた富裕層の間で行われているのである。



 しかし、実際には、「医療目的でない男女産み分け」「男女産み分けだけのためのPGD」という、微妙に限定的な言葉を多用してしまうように、特に女性不妊、男性不妊の「治療」の一貫であると主張して、日本で不妊治療を行った記録があれば、完全に医療目的でないとは言い切れない場合の方が多いと思われる。後の節で述べるように、日本で不妊治療として体外受精の処置まで行っても原因が分からない不妊というのは、潜在的な遺伝性疾患の可能性があるはずである。そして遺伝性疾患というのは、例外を除いて、一つの疾患について、重症度の個人差を除くために、患者の間で統計をとったら、進化的に女子よりも男子が重症なのが当たり前である。つまり、日本で多くのご両親が望むといわれている、女子への産み分けを考えている場合は、医療目的であると主張しやすい。



 実際の他国のガイドラインにおいても、[男女産み分けの国際比較...]の節でヨーロッパでの男女産み分けの倫理基準が緩和されつつあることにふれるように、直系の親族に男性で重度となる遺伝性疾患を患った者がいて、PGDを受けようとしている対象の胚が二人目以降の子であれば、ヨーロッパの基準では今後多くが倫理的に認められていくはずである。



 詳しくは、[男女産み分けの国際比較...]の節で扱いたい。



 ただ、広く考えると、PGD、男女産み分けという特に能動的な行為を含まずとも、今日では高齢妊娠のリスクや父性年齢効果が具体的に知られるようになり、ある意味、高齢で子供を作るということ自体が、生物学的には、生まれてくる個人にとっては、ほぼ不利益だと分かっている。実際には高齢の父によるテロメア延長という例外*もあるので、あくまで「ほぼ不利益」としか記せないが。高齢によって増加すると思われる精子や卵子の変異は、非常に長い目で見れば種全体にとっては進化という利益になっても、ヒトの一生の時間スケールで見れば、言ってみれば淘汰という進化の苛酷さの渦中に我が子を投げ込んでいるような状態である。直感的にも科学的にも、高齢により子が遺伝性疾患を患うのに不思議はなく、それを知っていてなお、高齢妊娠、高齢男性授精を行わなくてはならないほど、社会が子を作ろうとしているご夫婦を、子の疾患といった困ったときに支えてくれるかどうか不安だということだと思われる。子の疾患で不安を感じて子を作るのが高齢となり、高齢妊娠・高齢男性授精により更に遺伝性疾患のリスクが増すというのは、悪循環であり、夫婦の事情としてあしらってしまうのではなく、社会保障の仕組みを分かりやすくして不安を取り除く必要があるのではないだろうか。



 私も子に自らの病気が子に遺伝してしまったかもと過去に絶望を感じた身である。タイトルを含め、この節が一部のご両親にとってきつい内容となってしまったことをお詫びしたい。ただ、自らが当事者であったが故に、どうしてもこの節を記さずにはいられなかったのである。

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