[遺伝学用語の混乱]のうち、特にvariationを多様性としている部分について、変化性という名称の方が本来の訳である根拠を示す。ただし、すでに多型とそれなりにうまく区別され、diversityとの混乱も比較的抑えられていることから、語源学的に変化性の方が適切と検証したところで、本当に改定しなければならないものかどうかは、正直なところ分からない。[遺伝学用語の混乱]よりも遥かに後ろに位置する節となったのは、NIPTと、[フィルターされた人々による...]の節の様々なフィルタリングにより事実上の選別が行われている考え方を必要とするためである。
(日本人類遺伝学会が2009年に行った改定§ より)
1. genetics 遺伝学「意味:遺伝と多様性の科学」 遺伝学「意味:遺伝の科学」
1.本来 heredity とvariationの科学の意味で定義されたgeneticsがheredityのみの科学と解釈されがちな「遺伝学」と訳されたため、カバーする範囲が狭く解釈される傾向にあり、日本社会では「遺伝」が暗いイメージに結び付きやすい。遺伝学という訳語を変化させることはもはや困難であるものの、遺伝学が「遺伝と多様性」の科学であると改めて明確に定義する。
遺伝と多様性の両方が、英語から導入されたにも関わらず元のニュアンスが保存されていないため、この手の用語改定の中で、意味を確認したり定義したりせずに唐突に使用すべきでない用語である。本節では多様性の方にふれる。
2. variation 多様性(バリエーション) 変異(彷徨変異)
2.初期の日本の遺伝学者がvariationを「変異」と訳し、それを「彷徨変異」と「突然変異」に分類したため、その後の用語と概念が混乱している。また、mutationに「突然変異」という問題のある訳を当てたため、更に用語と概念が混乱した。「突然」の用語は適当ではなく、多くの現在の研究者は「変異」をmutationの意味に用いている。以上の混乱を整理し、世界的な用語と概念に矛盾しないようにするため、variationに「多様性(バリエーションも可)」、mutationに「変異(突然変異も可)」を当てる。これに合わせ、mutantは「変異体(突然変異体も可)」、variantは「多様体(バリアントも可)」の訳を当てる。多様体は数学では別の意味(manifold)を持つが、使用される分野の違いを考えれば、混乱することはまずないと思われる。また、「多様性」は生物学全体、あるいは生態学ではdiversityの訳に用いられているが、意味は類似しており、混乱は大きくはない。
"2.variation"について、「多様性(バリエーション)」との改定は、理想を言えば「変化性(バリエーション)」であった。「多」「様」というのは"polymorphism"を連想させ、「多型」との間で多少の混乱を生み出しているが、それほど混乱は大きくないはずである。"variation"は、"vary"「変わる」が語源で、直訳は変化であり、連続的な変化をイメージさせ、「多」という状態の数が数えられるかのような表現とあまり一致していない。変化だけでは一般用語と混じるため、学術用語であることを示すよう「性」をつければ「変化性」ということになる。多型とニュアンスが混じりやすい多様性よりも変化性の方が本来は合っていると思う。
問題はもう一つあって、『「多様性」は生物学全体、あるいは生態学ではdiversityの訳に用いられているが、意味は類似しており、混乱は大きくはない』と述べられている部分である。ヒトに対する多様性と、ヒト以外の動物、生物に対する多様性は、当然別のものである。ヒトは生命倫理と人権によって厳重に保護されるべき研究対象である。他の遺伝学的な研究対象とは当然異なる。
次の図に示すように、新型出生前診断(NIPT)により個体差ひいては多様性を積極的に制限するということが行われている。2013年以来、事実上の生まれの選択、生まれの制限により、自然な多様性から、人工的な多様性へと大きく方向転換したのである。すでに我々は、最大多数の最大幸福の論理に基いて、皆が高齢化の中で幸せに暮らせるよう、医療的高負荷、短命患児を間引いている。これは患児や当該の家系、高齢出産の夫婦、産婦人科医だけでなく、医療の負担ということを通じて皆の問題なのである。短命と一言で言っても、症候群なので、重症度の幅が広く、どこまで短命か分からないまま今現在も間引きが行われている。本当に短命なのか、本当にそこまで重症度が高いのか、もっと基準と診断をはっきりさせるべきではないだろうか。
このような現状があって、多様性という用語について考えた時に、ある程度は、ヒトに対する多様性は、人権の幅の中に制限するということを、我々は考えてもいいのではないか、と私は思う。やはり、障害があるから産まないという意思決定も、半分は遺伝因子、半分は環境因子によって構成されるまだ見ぬ我が子という存在に、意図的にその新しい生命に他人より劣った遺伝因子を与えて貶めるということもまた倫理的問題があるため、人権の観点を強調して、肯定されるべきだと思うのだ。ただし、問題は本当にそこまで大きな障害かどうかなのである。同じダウン症候群の方々の間でも、あまりにも軽度と重度が違いすぎる。18、13トリソミーについては、一年生存率が20%未満なので、産まないという判断を私個人としては妥当と思うが、ダウン症候群のうち一年間生きられないと言われている4~12%かどうかを、もしも事前にNIPTで一年生存率の予測が分かるようになれば、妊婦の方々自身に、より正確な予測を提供して、判断していただくしかないであろう。極端な話、そういう予測ができるのかどうか現時点では分からないが、50年生存率の予測が80%となった場合に、そういった生命を間引くのは、やはり間違っていると思う方々の方が多いのではないだろうか。
大げさな言い方をすれば、NIPTによりヒトの生まれの定義が変わった。特定の特徴を持った個体がかつてないほど積極的に排除されている。これまで自然だった多様性の状態から医療的、積極的にフィルターして制限を設けようとしているのだ。ただ、自然だった多様性と思っているものも、実は社会的に高齢妊娠になってしまう状況が作られているという意味で、完全に自然だったわけではない。文明化で晩婚化し、社会保障の不安で高齢妊娠が増えて、人為的な原因でトリソミーが増えているのだ。しかし、やはり、医療的な手段によって、大多数の人口を対象として生命のフィルタリングが系統的に導入されたのは、NIPTが日本の、人類の歴史上、初めてと言ってよいであろう。
こういった状況下で多様性という用語を考えるにあたって、厳しい言い方をしてみる。遺伝性疾患の変異と、生物多様性を生み出し進化を引き起こす変異の間で、発生の仕組みに違いがなく、遺伝性疾患の患者は主として感染症に勝つために生物多様性を獲得するための進化の犠牲者である。したがって、生物多様性をヒトに対して無条件に肯定するということは、遺伝性疾患で苦しむ患者がもっと増えてもよいのだと言っているのとあまり違いがない。また、そういった患者は生物多様性によって自然に発生したのだから、もっと放置してもいいのだと言っているのとあまり違いがない。つまり、生物多様性と、ヒトで人権に基いてNIPTといった手段で制限されようとしている多様性を混ぜてはならないのである。
英語では生物全体に対してはdiversityという用語を用い、ヒトに対してはほぼ必ずvariationという用語が用いられている。それなりに区別されているのだ。だから、日本語でも本来は両方が同じ多様性という用語であってはならない。これらはほぼ同じ意味だと日本人類遺伝学会は説明しているが、語源学的ニュアンスの違う用語である。diversityについて調べる。
diversity=†>divert
divert (v.)†
early 15c., from Middle French divertir (14c.), from Latin divertere "to turn in different directions," blended with devertere "turn aside," from dis- "aside" and de- "from" + vertere "to turn" (see versus).
このdiveristyの語源に合致するように、Wikipedia英語版のGenetic diversity†では、系統樹の上での進化の「方向性」が様々なように説明されている。つまり、日本語に冗長であろうとも誤解の少ないように訳すとすれば、diversityは多方向性、または多向性である。多様性ではない。しかし、残念ながら、ヒットカウント分析で、他方向性や多向性は十分な検索結果数を示さない。
"多向性" 約 101,000 件
"多方向性" 約 53,200 件
"多指向性" 約 12,600 件
(グーグル検索、2014年12月15日)
多向性が一応、上位にあるため、多少中国語が混じっているという違和感はあるが、あえて言えば、Genetic diversityは遺伝学的多向性、または、起源的多向性である。遺伝的多向性では、geneticではなくhereditaryと対応してしまうため、厳密さを追求する限りは遺伝的多向性という訳はありえないだろう。実際問題として、便宜上はありうるが。geneticは継承に重きをおかず発生に重きをおいた用語なので、ニュアンスとしては後者の方が正確である。また、もともと漢字自体が中国のものだから、中国でマイクのdiversityが多方向であることを多向性と言っているようなので、意味としては、合致しているし、私自身としては、近年は日本語から中国語へと導入した工業用語が多かったはずなので、逆にdiveristyについてのみ日本語が中国語に合わせてもいいのではないかと思う。もっとも、NIPTもある中国人が米国で学んで作った技術なので、これからもいずれ徐々に中国語から日本語への用語の導入が進むものと思われる。
variationのvaryの方は空間的に変わるのか、時間的に変わるのか、物理学的にはどちらなのか区別したいところだが、実際には両方の場合があるようだ†。だから、変化性あるいは多様性と訳して問題ないが、空間的、時間的のどちらの場合も含めて英語では述べていることだけ頭に置いておいた方がいいと思われる。
Wikipedia英語版のページで言うと、Human genetic variation†は、ヒトの遺伝学的変化性、または、ヒトの起源的変化性である。Genetic variation†は、あえて言えば起源的変化性である。Genetic variability†は、あえて言えば起源的変化可能性である。Biodiversity†は、あえて言えば生物多向性である。Species diversity†は、あえて言えば種多向性である。
Biodiveristyの中に、次の3つの成分†があるそうである。
taxonomic diversity
分類学的多向性(種多向性)
ecological diversity
生態学的多向性
morphological diversity
形態学的多向性
3つの場合でdiveristyで統一されていることから、おそらくだが、variationというのは、ローカルな変化をイメージし、diveristyというのが、大きな方向転換を含むのではないだろうか。つまりBiodiveristyのトップ†に"degree of variation of life"とあるのは、導入として分かりやすい変化を思い浮かべさせる意図があると思われ、その後に、大きな方向転換の説明が来ているように思われる。読者に分かりやすい部分から説明を始めるという、英語の説明文の意図を汲み取れずに、Biodiversityが最初にvariationで説明されているから、この2つが同一であろうという話になってしまったのではないだろうか。
結局のところ、生物界全体のgenetic diveristy、biodiversityとちがって、ヒトにいたってはhuman genetic variationという、種内のローカルな変化について述べるため、variationとしてあると思われるので、やはり、diversityを多様性としようが、多向性としようが、variationはdiversityとは関係なく原語に忠実である必要があり、変化性であろうと思われる。
日本人類遺伝学会による「遺伝学」の用語改定に話を戻すと、「heredityとvariationの科学の意味で定義されたgenetics」というのは、確かに過去においてはそう*なのだが、シーケンシングによって父母由来の変異が見分けられるようになった現在では、既に時代遅れの話である。[コモンとレア...]の節で述べたように、一つだけでは良性と見られる、つまりどちらかというと多様性のイメージに近い、SNPsの集合によって、アルツハイマー病といったコモンディジーズが引き起こされ、その一方で稀な変異により重度の単一遺伝子疾患が引き起こされ、その中間にBRCA遺伝子による乳がんが存在する。これらは頻度も重症度も連続的に分布しており、重度だからheredityだ、軽度だからvariationだとはっきり区別できるものではない。更に染色体異常症や、ヘテロプラスミーによるミトコンドリア病といった、実に様々な遺伝性疾患が存在し、やはり様々という限りは、遺伝性疾患も広義の多様性の中に含まれるはずである。更には、多様性という言葉の本質として、様々なものを広く含む方向で解釈するのが妥当であり、狭く解釈するのであれば、それは多様性という言葉そのものと自己矛盾する。だから、heredityとvariationを合わせて遺伝学だというのであれば、その遺伝学が文脈が与えられないとheredityとしか日英翻訳できない方がおかしいのであって、variationを強調するほどvariationがdiversityと区別されずに多様性と英日翻訳されている曖昧さが更に導入されてしまう。
だから、ヒトの多様性と動物の多様性が混同されかねないよう、他の動物のdiversityを多向性として、variationを多様性とするというのでも、状況は一応は改善される。しかし、もっともよいのは、polymorphismとも区別して、diversityを多向性、variationを変化性とする選択肢である。
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