2015年3月5日木曜日

書いたもののアクセスにカットオフをもうけて、読める人口を限るという文化

ヒトを見捨てながら生きるというリアル 
上記の考察の続きとして、やはりカットオフ、つまり、一部の人々がアクセスできないことを、費用対効果を考えながら許容していかねば、我々は生きていくことができない。たとえば、自分が書いた書籍に一冊3000円の値段をつけるというのは、それが払える層でなければ読むなという制限をもうけているわけで、文筆で身を立てようとするもの、しかし、書いているものが希少疾患に関係していて、要するに少数の弱者を見捨ててはいけない、という内容なので、大きな矛盾をかかえてしまう。その結果、無料で読める電子書籍をめざして、紙媒体の方は後で考えるという妥協案に落ち着いているが、それでも、最終的には誰もが無料で最新版にアクセスできるとは限らないのである。・・・自分が文筆で生きていくためには、この制限を許容して文筆家たちのなかよしクラブのルールに混じらなければならない。厳しすぎる見方かもしれないが、Wikipediaに記していると、まさにこのデメリットを実感する。だれでも読めるということはすばらしいことだが、Wikipediaは常に資金がつきそうな状態なのである。当然、書いている人口もなんとなく貧乏な雰囲気をただよわせていて、ぶっちゃけ、何らかの知的仕事についていたものが、職を離れざるを得なくて、余った時間をWikipediaにぶつけている、、、、偏見かもしれないし、統計は出るはずもないが、私も含めてそういう傾向があるのではないだろうか。

つまり、結局は自分が文筆でお金を得るために、読者に対するカットオフを許容するか、否か、という話である。許容するのが普通である。しかし、それはWikipediaを記していると本当にそれでいいのか、弱者の味方、みんなびょーどーみたいな書いている内容と、やってることちがうだろ、と思うわけである。

しかし、それが「文化」であると割り切ることは、おそらく時間をかければできるだろう。今はまだ、迷っている。

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