2015年3月5日木曜日

ヒトを見捨てながら生きるというリアル

だれでも、ヒトを見捨てながら生きている。そうしなければ、自分や家族が生きられないからである。極端な話、だれも東南アジアで死んでいく子どもたちのために日本にいながら私財の一切を捨てようとはしていない。しかし、それは極端な例で、カットオフポイント、つまり、見捨てる条件の決まり方としてはゆるい方である。高額の寄付や募金なんてクレジットカードさえあればだれでもできるのに、皆がそんなことをしていないからである。しかし、目の前で誰かが倒れているのに、救急車を呼ぶためのスマホの通話料や、公衆電話まで走る労力を惜しむのは、目捨てる条件として幅広すぎて、程度の問題として正当化することはできない。自らの金額、損失としては小さいが、物理的距離として近く、費用対効果として極端に大きいのに、それを果たさないのは、倫理に反すると言えるだろう。

・・・しかし、倒れているわけではなくて、飲み物がほしいだけだったとしたらどうだろうか。飲み物がないだけで心臓病の患者なら死ぬことがあるはずだが、実際もんだい、「私はあなたに説明してもわかってもらえないような稀な種類の心臓病なの。たまたま人にぶつかられて飲み物を全部こぼしてしまった。だから今そのジュースください」と主張されたとしても、患者の口から出る言葉だけで信用して与える義務はないのである。より正確には、与えるかどうかはその患者の見た目に依存してしまうだろう。そういうような意味で、誰もが何らかの形で、他の患者を助けることに費用対効果が見込めなければ、対応していないのがリアルである。

何が言いたいかというと、世界希少・難治性疾患の日(RDD)が2月末日に設定されていて、重度の患者ほど寒さとインフルエンザ怖さで参加できず、軽度の患者の声ばかりが目立つ結果になるというのは、RDDが見捨てられた疾患の患者のための日であることを考慮すると、何らかの対策を打つ必要があると思うのである。そうしないと、あまりにもRDDというイベントは偽善的すぎる。健常者と軽度の患者のためだけの、世界希少・難治性疾患の日ということになる。カットオフポイントとして、気温の低下により重症度が上がる疾患、冬の感染症で重度となる疾患という基準で、重い側をばっさりと切り捨てすぎている。具体的には、前者として骨格筋チャネロパチーの一連の疾患といった筋疾患があげられる。

ただ、繰り返しになるが、だれもが何らかの形で、どこかの患者を見捨てながら生きているのがリアルであるため、これはRDDだけの問題では決してないし、日本事務局だけの問題でもけっしてない。ただ、RDDに参加できる患者について、カットオフポイントがあまりにも厳しすぎると思われるので、やはりITを更に積極的に導入して、改善を図るべきではないだろうか。

それが昨日のThunderclapの調べ物となったが、もしかすると、日本語で投稿したら、なるべく日本語の投稿だけに限って戻されてくるような仕組みなのかもしれない。もしそうだったら、一気にいろんなことが楽になるはずだ。世界事務局が行っているThunderclapに日本語の案内を作る準備だけでいいし、サーバダウンとか何か起こったとしても、世界事務局が中心になって対応してくれるのだから。

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